ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

 「おとなの予備校」開校に向けて

 ご無沙汰しています。

 4月から環境が大きく変わりまして、
 北陸の富山から神奈川に引っ越し、
 (主に仕事は東京で)

 仕事もコピーライターになり、
 文章作成をメインにすることになりました。


 この機会に、今まで頭の中だけで考えていたことを、
 アウトプットする場を作ることにしました。

 それが、タイトルの
 「おとなの予備校」です。

 今回は、この場をかりて、その開校に際しての
 理念と言いますか、自分の想いを述べ、
 自分にとっての指針とさせていただきたいと思います。

 これが、参加される方にはガイドマップともなれば、
 なおうれしいです。


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 私は東京の私大で、哲学を専攻しました。
 4年間学び、いわゆる「知的興奮」を味わって、
 一時期は

 「哲学をきわめて、現代を代表する哲学者になろう」

 と思い、大学院を目指して勉強し、
 実際に受験もしました。

 しかし、そこで転機があって進学はせずに、
 東京で就職しました。


 数年後、北陸は富山に移り、3年過ごしたのちに
 また関東に戻りました。

 東京では営業職、富山では造園業、厨房のスタッフを経験し、
 いろいろな職場でいろいろな人と共に仕事をし、
 またいろいろな立場・業務をさせてもらう中で、
 ある疑問が浮かんできました。


 それは、

 具体的な、個別のケースでは有効なノウハウを、
 状況を変えても適応することはできないものか?

 ということでした。


 具体的に直面したのは、たとえば

 ・上司のキツい物言いに、
  「自分にも落ち度はあるけど、、、そんな言い方しなくても」
  と口には出せず胸の中でモヤモヤしっぱなしだ

 ・スケジュール管理はしているのに、どうしてなのか
  予定通りに仕事が進まないで困っている

 ・悪意はない、と分かっていても後輩のデリカシーなさげな
  言葉に傷ついて、気持ちを立て直すのに数時間を要する

 といったケースです。
 自分に降りかかったものも、周りの人に起きたことも含めて。


 このような、日ごろぶつかる疑問や、悩みを
 「何とかしたい」と思って
 ビジネス書などを読んでみる。

 それは誰しも経験があると思います。


 それぞれの本の内容や言われているノウハウは良く分かる、
 また問題も解決できるのだけれど、
 一過性で終わり、また次のノウハウを学ぶ・・・

 と、心当たりがある人は多いのではないでしょうか。


 そこで、考えたのは、どうすればある場面で有効なノウハウを、
 別の状況でも活かせるか?
 ということでした。

 自分のバックグラウンドである「哲学」の発想で、

 「そもそも、これは(コトでもモノでも)何なのか」
 「どんな意味があるのか」

 と根本にさかのぼって考える、という習性があります。

 そうしてみると、具体的な言葉や行動として現れる裏に、
 その土台となっている
 「考え方」が決め手なのではないかと思いました。


 しかもその
 「考え方」は、深くつきつめると多くの場合に
 共通しているようにも思います。

 私自身、その土台にあたるところを深く突き詰めたいと思い、
 学んでいるところです。

 東京で、一緒に仕事をしている友人にこの考えを話すと、
 とても共感してくれて、

 「それならお互いに意見交換しようじゃないか」
 ということになりました。

 さらに、
 「いっそのことブログみたいに公開して、
  シェアしてみたらどうか」

 という話にもなり、ブログとして公開する予定です。

 その「考え方」を求めての試行錯誤、道のりを通して、
 何かしら参考になる内容があれば、うれしいです。


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 まとめると、


 ・具体的な、個別のケースでは有効なノウハウを、
  別の状況でも活かすには?

 ・具体的な言葉や行動の土台となっている
 「考え方」が決め手なのではないか

 ・その「考え方」は、深いところで
  共通しているのではないか


 この疑問を突き詰め、「考え方」を整理して、
 必要な情報をすぐ出せるようにしておきたい。

 いってみれば
 日頃の疑問・悩みの解法を集めた、
 オンデマンドの参考書

 を目指しているということです。


 その学んだ内容を、出来るだけ多くシェアしたいと思います。

 ここから、一つでも参考にして頂ければと思います。

 

 また、このようにしたらどうか、

 このようなトピックを扱ってみたらどうか、

 などご意見をいただけたらとても有り難いです。

 コメントやメッセージで、お願いいたします◎

 

 

 長くなりましたが、最後まで読んでいただき
 ありがとうございます!

 

第4回目 人生における最大の課題     ~死の問題とその解決~


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■「死」の問題が、哲学の動機


 最近、若くして亡くなった女優のニュースが

 巷を駆け巡っている。

 その知らせに触発され、ここで取り上げている問題の

 核心部分を、先取りの形で書き残しておこうと思う。


 誰にとっても、自己の「死」ほどの大問題は無い。

 この世に生まれ、生きている以上は

 いつかは死なねばならない。

 その時が、臨終が訪れれば、そこで私という存在は

 この世から失われてしまう。

 そう思うからこそ、交換できない、やり直しもできない

 という自己の存在の「重み」を実感するのだろう。


 確かに、私という存在は交換も、やり直しもできない

 というのはわかる。

 わかるのだが、だからといって、その私の存在をそのまま

 「すばらしい」と無条件に賞賛できるだろうか

 
 これぞ「本来の自分」といえるもの、
 
 果たすべき目的を果たした、と心から認められる状態、
 
 いわゆる「自己の存在」に意義を感じられる状態とはいかなるものか。
 
 これが、古来から哲学者が常に取り組んできた問題である。
 
 
 この問いに、ハイデガーはズバリ、

 「死」つまり「生の終わり」が、

 「生」そのものの本来の価値を顕(あらわ)にする、

 と指摘している。

 自己の「死」を直視したとき、

 まさに当の自分の、本来の意味、価値を見出すのだ、と。


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■「死への先駆的決意
 (Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode)」


 ハイデガーによれば、自分の死を直視し、

 自分の生涯が有限であることを自覚することが

 自分の人生を有意義に生きるための必須の条件である。


 人間を「死への存在 Sein zum Tode」

 と規定すると、

 人間存在の有限性が明らかになる。

 
 人間は、死という終わりを持っている。

 我々人間は、死を避けて通ることはできず、

 否応なしに死と関わりを持たなければならない。


 
 この自覚に立ったとき、

 人は、限られた時間を、無駄に過ごすことなく

 真剣に生きることができるようになる。


 この有限の時間を、何に費やすべきか。
 
 その選択と、それを実行する決断に迫られる。
 
 その決断は、死を先駆的に覚悟した決断であり、
 
 当然、真剣なものにならざるを得ない。


 
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■「死」は「いつ」の問題なのか


 ところが、我々は普段、健康であるときは、

 死を「他人のもの」であって、自分を当事者とは思っていない。


 「ひとはいつかはきっと死ぬ、

  しかし当分は、

  自分の番ではない」

 という見解が、世間に広まっている、と指摘している。


 一つの可能性として、

 「いつかは死ぬ」と理解はしているものの、

 自分の死が現実的になるのは、

 いつのことかわからない。

 すなわち死は、今のところ自分とは関係がないと、我々は思っている。

 これが自分自身の死から目を逸らした「世人」の生き方である。


 
 
 「人間が生まれでるやいなや、

 人間はすでに死ぬべき年齢に達している」

 とも言っている。

 
 
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■選択の基準とは


 前回、

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉から、「選択」に付きまとう

 重い「責任」について触れた。


 「選択」とは、現前の可能性から一つを選び択ることである。

 それは同時に、他の一切を否定し、

 その可能性(在り得た自分)を放棄することだ。

 だから、その選択は、重い責任を自らに負う。


 重要な選択であればあるほど、

 それには相応の根拠・基準がなければならない

 その最たるものが、「自己の死」だと言われているのである。

 
 

「疾風に勁草を知る」

 出典は『後漢書』の王覇伝にある、

 漢王朝を再興した光武帝が、窮地にあって

 自分に従って来た者達が次第に離散していく状況で、

 慨嘆して述べた言葉である。


 困難に遭ってはじめて、その人間の本当の価値、

 強さが分かるということを教えている。


 同様に、選択についても、

 制限・負荷が大きければ大きいほど、

 その選択を吟味する基準は徹底したものになる、
 
 という意味にも取れる。



 「人間が、ふつうに幸福と考えているものは、

 傷つきやすい、みかけの幸福である場合が

 多いようであります。

 それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、

 それ死を直面した場合に立たせてみると、

 はっきりいたします」

 (岸本 英夫『死を見つめる心』)


 ガンと10年闘ってこの世を去った、

 東大・宗教学教授の岸本英夫氏が
 
 遺作として著した『死を見つめる心』 の一節である。



 どんな生き方を選んでも、

 最後は「死」を迎えねばならない。
 

 それまでの「人生」という時間を

 何に費やしたならば、心から
 
 果たすべき目的を果たした、
 
 これぞ「本来の自分」といえる、
 
 いわゆる「自己の存在」に意義を感じられる状態に
 
 至ることができるのか。
 
 
 「死へむかって開かれた自由のみが、
 
 現存在(人間)に端的な目標を与える」

 (『存在と時間』第2編5章)

 私は、必ず死ぬ。

 しかもその死は、いつ訪れるかも分からない。

 50年先と思っていたら、今年、「その時」が

 来るかも知れない。


 いや、明日、あるいは今晩にも、

 絶対に無いとは言い切れない。


 その「死」の問題を、直視し、
 
 「いま」の自己の問題と引き受けてもなお、
 
 「私の存在はすばらしい」

 と言えるだけの根拠が、

 自己の存在を預けられるだけの拠り所があるだろうか。

 
 それこそ、人間にとっての不可避の課題、

 有限の「生」のうちにおいて、

 是が非でも解決を求めねばならない問題だと、

 ハイデガーは指摘しているのである。
 
 
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■まとめ
 
 
 大著、『存在と時間』を初め多くの書物を著し、
 
 86年の生涯を通して精力的に講義を続けた
 
 哲学者、ハイデガー
 
 その思惟の動機は何だったのだろうか。
 
 
 その著作に触れた人はみな、
 
 異様・異常、執拗なまでの「厳密さ」を求める姿勢に
 
 「何か」を感じるだろう。
 
 
 彼の思惟を突き動かした動機、それは「軽い問題」では
 
 なかったことは言をまたない。
 
 己の存在を懸けて、「思惟」の道をもって
 
 目指すべき処へ至ろうとしたのだろう。
 
 
 可能な限り、その道をたどってみたい。
 

第3回目 現象学の基礎 ~自明性への問い・「地平」の概念~

現象学の意義 ~「自由」という不自由からの脱却を目指して~

 前回、「私」という人間の「存在」を理解する道として、

 ハイデガーが採用したのが「現象学」であると言った。

 この現象学について、もう一つ、補足しておきたい。

 

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉は、非常に深長である。


 人間は「自由」のうちに生まれ、生きている。

 しかし、「自由」の裏には「責任」がある。

 自分が選んだことならば、その結果がどうであれ、

 すべて自己責任である。

 選択が重くなればなるほど、責任も重くなる。

 そして生きるということは、選択の連続である。


 そうなると、生きるということは、

 自由になるほど、その責任が重く、

 ある意味では不自由になってゆくもの

 なのかもしれない。


 「私」という一個人を考えてみても、

 多様な可能性を持っている。

 今から、どんな人生を歩むか、一通りでない。

 どころか多種多様である。

 いや、明日の一日だけを考えても、可能性(選択肢)は

 無限といっていいほどキリがないであろう。


 では、その中で、何を選ぶべきだろうか。

 当然ながら、

 「一つ選ぶ」

 ということは、

 「他の選択肢をすべて捨てる」

 ことになる。


 それだけ重い選択をせざるを得ない、

 そんな私たちに、大きな手助けとなるのが

 「現象学」なのだ。


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■「分からない」と分かっているのか、「分からない」ことが分からないのか

 まず現象学は、

【「自明性」を問う】

 ところから始まる。


 「自明性」とは、

 皆が「あたりまえ」と思っていること。

 また生活の、あるいはコミュニケーションの

 大前提となっていること、である。


 しかし、この皆が「あたりまえ」と思っている事柄を、

 立ち止まって考えてみると、曖昧になってしまう。

 実は、問われると答えられない、という事実に

 気づいてしまう。


 たとえば

 「時間とは何か」

 と聞かれて、迷わず答えられるだろうか。


 
「では時間とは何か。

 私に誰も問わなければ、私は(時間とは何かを)知っている。


 しかし(時間とは何かを)問われ、説明しようと欲すると、

 私は(時間とは何かを)知らない」

               (アウグスティヌス『告白』)


 一般に「学問」は、

 「自明のこと」を「法則」や「定理」とし、

 それら一般的な知識を土台として、

 複雑な理論を構築してきた。


 いわば土台から高く高く、構造物を組み立ててきた

 のである。


 現象学の働きは、ちょうどその土台の検査のように、

 「自明のこと」とされている知識にむけて、

 本当に正しいのか?と問うのだ。


 これを

 「自明性の批判(吟味)」

 という。


 分からないものが「分からない」のなら、当たり前。

 しかし、 分かっているはずのものが

 「分からない」となると、問題となる。

 

 つまり、

【「分からない」と分かっている】

 ならば、「問題」として取り組むことができる。


 しかし、

【「分からない」状態であることが、分からない】

 のであれば、「問題」にすることもできず、

 当然「解決」はありえない。

 これでは何も進歩しないのだ。


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■「忘れられた地平」を開示せよ

 そして現象学では、

 「現出」と「現出者」を区別する。


 「現出」とは、今、見えている姿のこと。

 一つの物が、私に意識される際には、色々な

 姿として写るだろう。


 「現出者」とは、それら多様な現出のもとである。

 当然、もとは一つの存在なのだ。


 例えばサイコロ。

 サイコロ、という一つの立方体が、

 私の目には一~六の「出た目」

 として写る。


 このサイコロが「現出者」、

 いろいろの「出た目」が「現出」にあたる。

 

 さて、ここで非常に重要な概念である

 「地平」

 が登場する。


 まず、この「現出」に二通りある、と区別する。

 「顕在的現出」と「潜在的現出」である。


 「顕在的」とは、今、見えている姿(一つの姿)。

 「潜在的」とは、今は見えていないが、必ずそこにある姿
     (他の見え方、多種多様)。


 この、「潜在的現出」の総体を、「地平」と名づける。

 サイコロでいうと、今、「一」と出ているなら

 「二」から「六」までの目が、「潜在的現出」である。

(本当は、同じ「二」の目であっても、

 認識主体である「私」が、少しでも首を傾ければ、

 「見え方」が変わる。つまり別の「現出」となる。

 よって、「顕在的現出」は無限の姿を取りうることになる)


 この「潜在的現出」、言い換えると

 「顕在化していないが、顕在化しうるものども」を、

 「地平」と言う。


 この「地平」が、「現出者の現出」を支えているのだ。

 逆にいうと、すべての「顕在的現出」は、

 「潜在的現出」を含んでいるとも言える。

 

 現象学の概念によって、初めてこの「地平」を意識することができる。

 意識して初めて、「問題化」が可能になるのだ。

 意識しなければ、「問題化」もできない。

 ただ、素通りするだけである。


 ここでいう「問題化」とは、


 「今の自分の「在りよう」も、無数の地平の一つにすぎないのか。

  ならば、別の「在りよう」も可能なのだ。

  今の自分が、「本来あるべき」姿なのだろうか?」


 という問いを、自らに投げかけることである。

 これは自分にしかできない問いであり、

 また必ず問わねばならない問い、

 そして解決せねばならない問いであろう。

 

 なお、20世紀を代表する哲学者の一人、レヴィナス

 このように言っている。

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エマニュエル・レヴィナス
フランスの哲学者。

独自の倫理学、エトムント・フッサールマルティン・ハイデッガー
現象学に関する研究の他、タルムードの研究などでも知られる。
ロシア帝国、現リトアニア、カウナス出身のユダヤ人。

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 「現象学、それは志向性である

  しかしそれは、意識が対象に向かって「炸裂」し、

  直接に対象のもとにあるというだけのことではない。


  対象に向かって「炸裂」する志向は、

  対象を把握するのみでなく誤認する」


  「志向は、それがただ含蓄的に含んでいるものすべて、

   意識が見ることなく見ているものすべてを、忘れている」

    (『実存の発見―フッサールハイデッガーと共に』 )


 私たちが現実をみるとき、

 「先入観」というヴェールを通している。

 その為に、ある時は「見えるもの」が見えず、

 またある時は「見えないもの」を見てしまう。

 その「先入観」を外して、あるがままの

 対象を認識せねばならない。


 その為には、意識が「忘れている」もの、

 つまり「見落としているもの」に目を

 向けなければならない。


 この「見落としているもの」を、

 現象学の用語で「地平」という。

 この「忘れられた地平」に光を当て、

 私の認識に明らかに開き示すことが、

 現象学のまず第一の働きなのである。


 先に触れたように、「私」の在りようは多種多様である。

 しかも、自覚している在りようはおそらく、

 全体のほんの一部であろう。


 自分とは何者なのか、より深く、慎重な考察が必須と

 思わずにおれない。


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■まとめ

 哲学とは、

 「私とは一体何者なのか」

 という大問題を、その課題とする。


 そして、

 「それを把握することが、果たして可能なのか」

 という極めて切実な要求に答えるべく、

 フッサールが生涯をかけて

 構築した一つの「学」が「現象学」である。


 だから、現象学は、

 「厳密な学」でなければならない。


 これがフッサールの、生涯を貫くモットーであった。


 弟子であるハイデガーは、その言葉を実現すべく、

 自らの主著である『存在と時間』において、

 「序論」の全て(約80ページ)を費やして、

 「存在とは何か」という「問い」の分析を行っている。


 つまり、

 答えるべき「問い」について

 どのような問いなのか、

 どのように答えるべきか、

 こと細かに分析したのだ。

 

 現象学の成果として、今回、紹介した

 「地平」の概念を意識することにより、

 「私」について、日常生活ではおよそ無いであろう

 根源的なレベルから問うことが可能になる。


 答えがあるのか無いのか、

 また、答えは何なのか、という以前に、

 「問い」を立てることが可能になった。


 ここに、大きな意義がある。


 今回はここまでとし、ではその答えは何か、

 という内容は次回以降で説明したい。


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第2回目  存在を知るための方法「現象学」


■「現象学」とは?存在を探求し、解明する道


 前回(1回目)の最後に、「展望」として、

 「私」という存在を、「時間」から解明しようとした試みが

 『存在と時間』として書き残された、と書いた。

 この


【「時間」から「存在」を理解する】


 とはどういうことか。

 これについては今回の最後に私見を述べることにして、

 まず、「存在」を探求する学問としての「存在論」について、

 ハイデガーの思惟の道に即して、基礎的な部分に触れておきたい。

 

 ハイデガーが、存在を探求する試みである「存在論」の

 方法として採用したのが、

 「現象学」であった。

 これは、直接の師匠であるフッサールが、

 新たな哲学運動として創始したものである。


 「私とは一体何者なのか」

 「それを把握することが、果たして可能なのか」

 という極めて切実な問いに答えるのが、哲学の役目である。

 

 だから、哲学は

 「厳密な学」でなければならない。

 フッサールが、この信念に基づき、生涯をかけて

 己の存在という大問題に答えるために、

 構築した一つの「学」が「現象学」である。


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エドムント・フッサール

(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859年4月8日 - 1938年4月27日)
オーストリアの哲学者、数学者。

ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、
ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、
哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、
全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。

現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、
マルティン・ハイデッガージャン=ポール・サルトル
モーリス・メルロー=ポンティらの
後継者を生み出して現象学運動となり、
学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。

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 このフッサールの元で哲学を学んだハイデガーは、

 「現象は光のうちで視られる」

 と述べている。

 

 光がなければ、どんな現象も「視る」ことはできない。

 一見、当たり前だが、実はここに深い哲学的考察が含まれている。


 「視る」とは、「その存在を認識する」ことである。

 ここで「視覚」は、私たちの「認識」の働きを端的に表す

 モデルである。


 ( 自 )  →  ( 対 象 )


 このような場合、(自)から(対象)へ向かう(→)が

 視覚の働きである。視覚は、「視る」ことで、

 (対象)がそこに存在していること、

 またどのような色・形・状態で存在しているか、

 認識する。


 この「視覚」が働く前提が、「光」である。

 「光」なくしては、「視覚」はその一切の機能を働かせることはできない。

 

 ここまでは、当たり前のことである。

 そこで、このモデルを「認識」の場に、適用してみよう。

 つまり、物理現象としての「物(色・形・状態)」に対しての

 「視覚」の働きを、

 物理現象ではない、色・形を離れた概念である「存在」を認識する

 作用に適用してみる。


 そうすると、「視覚」にとっての「光」にあたる、

 認識が働く前提は何なのか、問題になる。

 表面的な色・形・状態ではなく、そのものの「本質」や

 「そのもの」を認識することが可能であるならば、その認識を

 可能にさせるもの、認識の前提があるはず。

 それは、一体何なのか。


 問題の対象が明らかになったところで、考察を深めるために、

 もう一度、物理現象の場に戻ろう。


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■「存在」を認識する前提とは ~「光」の働き~


 ハイデガーは、「光」というものは

 「それのうちで或るものが露呈し、

  それ自身に即して視られうるように

  なりうるそれ」

 であると、規定している。


 この発想の元となったのは、アリストテレス

 「或る意味で光は、

  可能態において色であるものを、

  現実態において色であるものに作る」

 という言葉である。

 最低限、用語の解説をしておきたい。

 

 「可能態」とは、

 「○○になりうるが、未だそのように至っていない状態」

 のこと。

 「花になりうるが、未だ開花していないつぼみ」

 や、

 「大学生になりうるが、未だ合格していない受験生」

 などである。


 「現実態」は、その可能性が「現実」のものとなった状態である。

 上記の例では、

 「開花した花」

 「合格した大学生」

 がこれに当たる。


 さて、ここでアリストテレスが述べていることを、

 物理現象で具体的に言うと、こういうことである。


 「暗闇に置かれているリンゴ

  =可能態において色であるもの
  (本当は赤いが、今は赤く「見えない」状態)

  に、光を当てると、

  赤く見える

  =現実態において色であるもの」


 すでに「赤い」という性質を備えていても、

 「光」がなければ、その性質が発揮できない。

 つまり「視覚」の働きで言えば、「赤い」リンゴも

 「赤い」と見えない(認識できない)。


 そのものがすでに持ち合わせている可能性を、

 現実にする働きこそが、「光」なのだ。

 

 ちなみに、一般的な意味で「存在」するモノから離れ、

 抽象的な概念のレベルで「存在」を探求することを

 「形而上学」という。

 いわゆる五感で感知できない、目に見えず手にも触れられないが、

 「存在」するもの(本質、精神、自由、愛など)を探求する

 「学」である。


 では、この働きを形而上学的に、物理現象を離れた

 場面に置き換えると、どうなるか。

 

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■「光」の形而上学


 「私」という一個の存在について、考えてみる。

 「私」は、多様な可能性を持っている。

 

 現状がどのようであれ、今から、どんな人生を歩むか。

 どうなってゆくのか、一通りでない。

 それどころか多種多様である。

 いや、明日の一日だけを考えても、可能性(選択肢)は

 無限といっていいほどキリがないであろう。


 では、その中で、何を選ぶべきだろうか。

 当然ながら、

 「一つ選ぶ」

 ということは、

 「他の選択肢をすべて捨てる」

 ことになる。


 無限とも思える選択肢の中で一つ選ぶ際には、

 その一つが

 「最も良い選択」であったかどうか、

 考えざるを得ない。誰しも不安であろう。

 これが、喫茶店やレストランでメニューを選ぶ程度の

 レベルなら、それほど深刻には悩まない。


 しかし、人生の中でも相当大きな選択を迫られた

 場合は、否が応にも考える。深く悩む。

 大学を選ぶのも四年間という時間、数百万のお金を

 かけて、ただ一つの大学を選ぶのだ。この重みを自覚したら、

 まさかパンフレットの写真だけ、あるいは「なんとなく」の

 イメージだけで決定はできないだろう。

 

 更に、職業を選ぶ段階ではそれ以上に深く考え、悩んで

 結論を出すのではないだろうか。

 

 それは、捨てる「他の選択肢」それぞれの価値と、

 自分が選ぼうとしている「一つ」を比べている、とも

 言えるだろう。

 

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 とサルトルは言った。

 

 人間は「自由」のうちに生まれ、生きている。

 しかし、「自由」の裏には「責任」がある。

 自分が選んだ、ならばその結果がどうであれ、

 すべて自己責任である。

 選択が重くなればなるほど、責任も重くなる。

 そして生きるということは、選択の連続である。


 その結果、ドストエフスキーが言うように

 人間は「選択の自由という恐ろしい重荷」に押し潰されて

 しまっているのではないだろうか。

 

 特に大きく未来を左右する選択には、確固とした根拠がほしい。

 しかし「これで間違いない」と選んだ先に、想定外の

 災害・トラブルに見舞われ「こんなはずではなかった・・・」と

 後悔するのではないか。

 

 そうはなりたくない、しかし

 「絶対に間違いない」と言えるほどの、

 確固とした根拠が見つからない。


 このように不安を常に抱えつつ

 生きねばならないとしたら、

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉は、

 まことに当を得ている、と

 言わざるを得なくなってしまうだろう。

 

 先にハイデガーは、「光」を

 「それのうちで或るものが露呈し、

  それ自身に即して視られうるように

  なりうるそれ」

 と規定していると述べた。


 五感レベルの日常的「存在」ではなく、

 抽象的な概念レベルで「存在」を探求する

 形而上学における「光」とは何だろうか。


 この「光」が明らかになり、「私」という存在が

 照らされたならば、未来、行く先が明らかになる。

 それはすなわち、眼前の選択において明確な根拠が与えられ、

 自信をもって選び取ることができるようになる、

 ということである。


 ハイデガーの思索は、伝統的古代哲学の問題を忠実に

 踏襲しつつ深掘りし、独自の存在論を展開している。

 まさに「光の形而上学」と呼ぶにふさわしい。


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■まとめ 現象学の成果・自己の形而上学的理解について


 ハイデガーが、「存在は『時間』から理解される」と予想し、

 それを論証するために書いた論文が

 『存在と時間』である。

 

 この「存在は『時間』から理解される」というアイデアを、

 自分なりの理解で表現すれば

 「存在の意味(価値・理由)は、時間性から眺めることで明らかになる」

 ということであり、噛み砕いていうと

 「過去から現在、そして未来への『時間』の流れの中で、

  はじめてその『存在』の真価が明らかになる」

 ということである。


 この「存在理解」の道として、ハイデガーが採用したのが

 「現象学」である。

 この現象学の成果として「私」という存在を照らす

 光が明らかになるはず、というところまで進んだが、

 この問題についてはもう少し、論を進める試みをしてみたい。

 

 

第1回目  存在への問いかけ「存在者は多様に語られる」

ハイデガー哲学の出発点「存在者は多様に語られる」


 1907年、17歳のハイデガー少年は、

 ある論文の一節に

 「電光」のごとき衝撃を受けた。

 それは、後にハイデガーの師となるフッサールが、

 哲学の指導を受けた

 フランツ・ブレンターノの論文であった。


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フランツ・ブレンターノ
(Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano,1838年1月16日-1917年3月17日)

は、オーストリアの哲学者・心理学者。

その哲学思想は、エドムント・フッサール現象学

アレクシウス・マイノングの対象論などに多大な影響を与えた。

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 ブレンターノの学位論文

 『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』

 の扉に、

 「存在者は多様に語られる」

 というアリストテレス形而上学』の有名な言葉が掲げられている。


 この言葉が自らの思惟の道を規定したのだと、

 ハイデガーは後にこう語っている。


 「私の思惟全体を突き動かしているものは、

  アリストテレスの命題に起因する。

  その命題とは、

  『存在者は多様に語られる』

  である。

  この命題は文字通り電光であった。

  そして次の問いを呼び起こした。

  存在のこの多様な意義の一性とはいったい何か、

  存在とはそもそも何を意味するのか」


 ここで

 「存在のこの多様な意義の一性とはいったい何か」

 と言っているのは、アリストテレス自身が

 「存在者は多様に語られる」

 に続けて

 「しかし、それは一つのもの、一つの実在との関係において

  (一へ向けて)であって、同名異義的にでなく、

  すべての健康的なものが健康との関係において

  (健康へ向けて)語られるようにである」

 と述べていることについて、である。

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■存在が「一に向けて」語られるとは、どのような事態か

 

 この「健康との関係において」とはどのようなことか、

 続けて以下のように説明している。

 「すなわち、健康を保つがゆえに、

  健康をもたらすがゆえに、

  健康のしるしであるがゆえに、

  健康を受け容れるものであるがゆえに、

  健康的なものが健康との関係において語られるようにである」


 つまり「一へ向けて」とは、

 「それとの関係で、全てが語られるところの『一』」

 なのだが、それをアリストテレスは「健康」を例に説明している。


 健康を保つがゆえに、適度な運動は「健康的」である。

 健康をもたらすがゆえに、適正な生活習慣は「健康的」である。

 健康のしるしであるがゆえに、血色のよい頬は「健康的」である。

 健康を受け容れるものであるがゆえに、身体は「健康的」である。


 など、それぞれは別個の存在である

 「運動、生活習慣、頬、身体」が

 健康との関係において(健康と関わりをもつがゆえに)

 「健康的なもの」と語られる。


 それと同じことが、「存在」についても

 言える、ということである。


 一つ、例を挙げよう。

 あるアスリートが、オリンピックを目指していた。

 彼は、練習はもちろん全力で取り組むが、

 自主的にトレーニングもしている。

 また、より高いパフォーマンスを出すために

 生活習慣にも気をつかうし、

 メンタルな部分での鍛錬も欠かさない。


 彼においては、生活の全てが

 「オリンピック出場」の一点に収斂している。

 たとえ、他人からは関連がわからなくても、

 刻一刻、過ごす時に無駄は無い。


 それにはとても及ばないけれど、

 大学受験のときを思い出せば自分にも似たような経験がある。

 勉強法の本によると、人間の脳は起きてから3時間後が、

 活性化するらしい。

 志望校の受験本番は10時開始、なら、遅くとも7時には起きよう。

 早寝早起きは良いともちろん知っていたし、親からも言われながら、

 なかなか続かなかったのに、自分から寝るようになった。

 そして一人で起きるようになった。

 そして食べる物も、特に昼食は眠くならないように、と気を使う。

 そして予備校に通い、各科目の勉強に精を出す。

 

 なぜ、こそまで頑張るのか?

 と問われれば、

 「あの大学に合格したいから」

 それ一つ。そのために生活のすべてがある、という状態であった。

 

 これを「私」という一つの存在について当てはめると、どうだろうか。

 「私」は多様に語られる。

 通っている学校は、

 学んでいる専攻は、

 就いている職業は、

 生まれた家は、

 特技・趣味は、

 、、、などなど。

 

 こういった特徴すべてを貫いて、

 「この一点にむけて」すべてがある、といえるような「一」があるか。


 哲学的には、

 「私」が「私」として存在している理由は何か、

 そもそも「私」は何の為に存在しているのか、

 これこそが「私」の本質であり、

 この一点を探求するのが哲学だということ。

 


 あるいは、自動車の免許を取るために

 「教習所」に通うことを考えてみる。


 同じサークルの友人が、2週間の合宿に行く。

 教習の合間や夜の時間もテキストを開きながら予習・復習を

 していた。

 この2週間という限られた期間、全神経は

 「免許を取る!」

 という一点に向けられている。


 もし万が一、免許が取れなければ

 (そんなことはまず有り得ないだろうが)

 かけた時間も、金銭も、無駄になってしまう。

 ある意味、大学の講義以上に熱心に取り組む。


 しかし、だからといって、

 「免許を取る」

 ために「私」が存在している、とは言えないだろう。


 免許を取るのは車に乗るため、

 車に乗るのは生活のため、

 とさらに先に、目的であり必要性がある。


 「免許を取る!」

 というのは、2週間という限られた期間だけのこと。

 本当に問題になるのは、その後、どうするか、である。

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■展望 「存在」と「時間」

 では、「私」という存在が多様に語られるとして、

 はたしてどれが、「本当の自分」だろうか。

 いや、その中に「本当の自分」といえるものがあるだ ろうか。

 

 ハイデガーは、その一点を

 「時間」から解明しようとした。

 その取り組みが、

 『存在と時間』として、書き残されたのだ。

 

 では、 『存在と時間』には何が書かれているのか。

 ハイデガーが試みた、「時間」から人間存在を解明するとは

 どのようなことなのか。

 

 順次、追って検討してみたい。

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第0回目  問題提起「人間とは、存在とは」

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■存在への問い 「人間とは何ぞや」


 まず、このブログで扱う問題について、触れておきたい。

 中心になるのは、ハイデガー存在と時間』である。


 人間とは何ぞや。

 私は、なぜ存在しているのか。

 この世界に、私が「いる」意味は何なのか。


 この「人間」「存在」への問いは、誰しもが一度は、

 心に抱いたことがあるだろう。


 しかし、表立って問いかけることは、少ないようにも

 見受けられる。


 小学生のころ、

 「マンガ世界の歴史」「マンガ日本の歴史」

 を夢中になって読んでいた。


 中学では

 横山光輝氏の「三国志」(マンガ・60巻)

 にハマり、何度も何度も読み返した。


 数百年、中には数千年も昔の人が、

 何を考え、どう行動していたのか。


 活き活きと描かれるマンガを、夢中になって読んだものだった。


 しかし、考えてみると、強いむなしさもあったように感じる。

 どんな偉業を為した人でも、

 100年も「存在」していない。

 長い歴史からみれば、あっという間に消えてしまうもの。

 残るものといえば、せいぜい建物くらいだが、

 それも遺跡としてごく一部が残るのみ。


 果たして、「偉人」と称賛される人でも、

 その「人間」としての存在にどんな意味があったのだろう、と

 考えると・・・

 どれだけ歴史を勉強しても、心に収まる答えは得られなかった。

 

 その目が自己に向けば、

 どうして、今、自分は「いる」のだろう

 という問いとまる。


 私が、この世界に「いる」間に、

 何事か為すべき事があるのだろうか。


 無いならば、意味の無い存在となってしまう。

 そんなはずはない!と思いたいが、

 「これ」という答えも無ければ手がかりもない。

 
 何としてもこの問いは克服しなければならない、

 知りたい、存在の意味を。

 幼いながらに、重い疑問を心に抱いていた。


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■消えない不安 「いったい、どこへ向かっているのだろう・・・?」


 しかし小学生であった当時、周囲の誰も

 考えてはいないようであった。

 また大人に聞いてみても、

 まったく真面目に取り合ってもらえない。


 そして中学に上がり、高校に進むと勉強と部活で

 手一杯になり、考えることも無くなっていった。

 部活の練習に一心不乱に打ち込んでいる時には

 他のことは一切考える余裕も無い。

 また友人と、趣味の話で盛り上がっている時にも

 「人間とは何ぞや」など頭には浮かんでこない。


 特に不都合もないし、このままで良いのでは?

 このまま日常を送ってゆけば、

 ことさらに思い悩む必要も、ないのでは?


 しかし、時おり、気になる時もある。

 それは何か理由があってではなく、何となしに。


 いつも乗っている通学電車でウトウトして、

 ハッと目を覚ましたとき。

 一瞬、自分が何処へ向かっているのか、

 わからない感覚に捉われる。


 もちろん、今は家に帰るのだから最寄の駅で降りるのだけれど、

 その意味では目的地はハッキリしているのだけれど、

 何となしに「不安」を感じてしまう。
 

 今から思うにそれは、自分が何者か、

 自己の「存在」認識が実は曖昧である、というところからくる、

 根源的不安だったようだ。


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■哲学との出会い アリストテレスの存在論


 大学の専攻は、考古学を選んだ。

 先生も、親も、「好きなことをやったらいい」と

 自主性を重んじてくれたので、ならば「好き」なものを

 選ぼうと、当時、知られ始めていたエジプト考古学を志望した。


 その時はあまり自覚していなかったが、これも幼い頃の

 歴史に対する漠然とした関心が根底にあったのかもしれない。


 ところがその大学で、「哲学」との出会いがあった。

 それは、まさに衝撃だった・・・

 

 1年次の一般教養で、とくに深く考えもせず、哲学の概論を受講した。

 すると、定年寸前(69歳だっただろうか)の

 哲学専攻の重鎮である名誉教授が、

 カント『純粋理性批判』の「序文」、

 わずか半ページを、

 半年近くかけて講義したのだ!!

 

 内容はカントの「コペルニクス的転回」について。

 難解な内容を、身近な事例をあげて分かりやすく、

 しかも嬉しそうに!語る姿が印象的で、

 今でも忘れられない。

 

 これが「哲学」との出会いであり、

 その奥深さに触れた、最初であった。


 同時に大学では、先輩からの紹介で仏教哲学も学び始め、

 二千年以上前に世界の成り立ちと人間の存在について、

 徹底した洞察があったことに感銘を受ける。

 

 所属大学では、1年次の終わりに専攻を決めることになっていた。

 最初は「考古学」に提出し、高倍率の中、内定していたが、

 どうにも「哲学」への関心の高まりを抑えらなかった。

 ついに学部長に直訴して、無理を言って変更してもらったのだが、

 前代未聞だぞ、と言われた。


 遺跡や遺物への関心も、掘り下げれば

 それらの「物」を残した人々への関心であり、

 古代から今日まで一貫して変わらない「人間」への関心、

 「人間とは何ぞや」であったと気づいたのである。


 2年次からは哲学に加えて文学、歴史(西洋・東洋・概論)、

 社会学、心理学、地球科学、民俗学、論理学、地理学、、、

 関心の赴くままに受講した。


 同時に仏教を深く学ぶようになり、

 「人間」への見方の深さ、鋭さに更に感銘を受ける。


 卒論には、もっとも素朴に、かつ純粋に

 「存在」を探求したと思われる哲学者、

 アリストテレスを選んだ。


 専攻の中でも最も人気の「無い」古代分野だったため、

 卒論指導は担当教官とマンツーマンで行われた。

 

 この道一つに生きてきた専門家と、90分、

 「哲学」一つを語り合う。

 講義ではもちろん、演習でもなかなか実現しないシチュエーション。

 「哲学」することを身体的に、日常の行動・実践のレベルで学ぶ、

 得難い機会を頂いたものだと思う。

 

 アリストテレスを深く学ぶ課程で、

 実は20世紀最大の哲学者といわれるハイデガーが、

 特にアリストテレスに関心を持っており、

 主著である『存在と時間』は、アリストテレス哲学の再解釈であったと知る。


 ハイデガーこそが、自分の関心に応えてくれる哲学者であったと気づくが、

 卒論作成のために本格的には学べず。


 今になってようやく、本格的に学ぶ機会を得た。
 

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ハイデガー哲学とは 『存在と時間』の謎


 20世紀最大の哲学者といわれるハイデガー

 その主著は『存在と時間』である。

 この本、実は「未完の書」であったと

 知る人は、少ないようである。

 まず、存在と時間』の成立について、簡単に触れる。


 『存在と時間』の出版は1927年4月。

 これは、どんな時であったのか。


 ハイデガーは、1909年、フライブルク大学に入学する。

 初めは神学部だったが、入学後に読み始めた

 フッサール『論理学研究』に影響されてか、

 1911年に哲学部へ転向した。


 実は、フッサールのいたゲッティンゲン大学へ移ろうとしたが、

 経済的な理由で実現しなかったといわれる。


 しかし1916年、フッサールフライブルク大学に異動になり、

 ハイデガーにとっては念願の師弟関係を結ぶ。

 ここで「現象学」的な見方を習得し、その哲学手法が

 アリストテレスの『形而上学』を初めとする主な著作の解釈を

 実り多きものとした。

現象学については、後の回で詳しく触れる)


 1923年からマールブルク大学教授に就任したハイデガーは、

 自らの哲学研究の成果である『存在と時間』を

 師のフッサールに捧げた。

 『存在と時間』の巻頭には、

 「エドムント・フッサールに 尊敬と友情をこめて贈る

  1926年 4月8日」

 とある(4月8日はフッサールの誕生日)。

 

 しかし、『存在と時間』には、きわめて重大な謎がある。


 それについては、『ハイデガー入門』(細川亮一著)に、

 以下のように触れられている。

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 『存在と時間』は1926年4月1日にその印刷が開始される。

 それは544貢のものであった。

 6月末まで印刷は順調に進んだが、夏学期の半ばに、ハイデガー

 印刷を一時停止させ、『存在と時間』の書き換えを行った。

 その書き換えによって分量が多くなり、全体を400貢ずつに

 分けねばならなかった。

 さらに第三編「時間と存在」は印刷中に不十分とされ、

 その部分の出版が断念される。


 『存在と時間』の構想によれば、二部構成(それぞれ三編構成)で

 あるが、実際に出版されたのは第一部の第二編までである。

 現行の『存在と時間』は、その課題を真に果たすことになる

 第三編を欠いた未完の書なのである。
                  (『ハイデガー入門』)

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 何と、20世紀最大の哲学書とも言われる

 『存在と時間』が、未完成であったとは!


 なぜ『存在と時間』は未完に終わったのか?

 そもそも、ハイデガーは『存在と時間』で

 どんな問題を扱っていたのか?

 その問題に答える『存在と時間』が、

 どうして書き換え、中断してしまったのか?


 この問題に正面から取り組んでみたい。

 果たして、どのような結果になるか分からないが、

 もしかしたら、これが哲学の歴史を変える、

 きわめて重大な問いなのかもしれない。


 以上のような趣旨で、これからハイデガーについて、

 取り上げてゆきたいと思う。


 私も学びの途中であるので、至らない点ばかりであろう。

 お気づきの点、指摘があれば、ぜひ教えて頂きたい。