ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

第1回目  存在への問いかけ「存在者は多様に語られる」

ハイデガー哲学の出発点「存在者は多様に語られる」


 1907年、17歳のハイデガー少年は、

 ある論文の一節に

 「電光」のごとき衝撃を受けた。

 それは、後にハイデガーの師となるフッサールが、

 哲学の指導を受けた

 フランツ・ブレンターノの論文であった。


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フランツ・ブレンターノ
(Franz Clemens Honoratus Hermann Brentano,1838年1月16日-1917年3月17日)

は、オーストリアの哲学者・心理学者。

その哲学思想は、エドムント・フッサール現象学

アレクシウス・マイノングの対象論などに多大な影響を与えた。

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 ブレンターノの学位論文

 『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』

 の扉に、

 「存在者は多様に語られる」

 というアリストテレス形而上学』の有名な言葉が掲げられている。


 この言葉が自らの思惟の道を規定したのだと、

 ハイデガーは後にこう語っている。


 「私の思惟全体を突き動かしているものは、

  アリストテレスの命題に起因する。

  その命題とは、

  『存在者は多様に語られる』

  である。

  この命題は文字通り電光であった。

  そして次の問いを呼び起こした。

  存在のこの多様な意義の一性とはいったい何か、

  存在とはそもそも何を意味するのか」


 ここで

 「存在のこの多様な意義の一性とはいったい何か」

 と言っているのは、アリストテレス自身が

 「存在者は多様に語られる」

 に続けて

 「しかし、それは一つのもの、一つの実在との関係において

  (一へ向けて)であって、同名異義的にでなく、

  すべての健康的なものが健康との関係において

  (健康へ向けて)語られるようにである」

 と述べていることについて、である。

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■存在が「一に向けて」語られるとは、どのような事態か

 

 この「健康との関係において」とはどのようなことか、

 続けて以下のように説明している。

 「すなわち、健康を保つがゆえに、

  健康をもたらすがゆえに、

  健康のしるしであるがゆえに、

  健康を受け容れるものであるがゆえに、

  健康的なものが健康との関係において語られるようにである」


 つまり「一へ向けて」とは、

 「それとの関係で、全てが語られるところの『一』」

 なのだが、それをアリストテレスは「健康」を例に説明している。


 健康を保つがゆえに、適度な運動は「健康的」である。

 健康をもたらすがゆえに、適正な生活習慣は「健康的」である。

 健康のしるしであるがゆえに、血色のよい頬は「健康的」である。

 健康を受け容れるものであるがゆえに、身体は「健康的」である。


 など、それぞれは別個の存在である

 「運動、生活習慣、頬、身体」が

 健康との関係において(健康と関わりをもつがゆえに)

 「健康的なもの」と語られる。


 それと同じことが、「存在」についても

 言える、ということである。


 一つ、例を挙げよう。

 あるアスリートが、オリンピックを目指していた。

 彼は、練習はもちろん全力で取り組むが、

 自主的にトレーニングもしている。

 また、より高いパフォーマンスを出すために

 生活習慣にも気をつかうし、

 メンタルな部分での鍛錬も欠かさない。


 彼においては、生活の全てが

 「オリンピック出場」の一点に収斂している。

 たとえ、他人からは関連がわからなくても、

 刻一刻、過ごす時に無駄は無い。


 それにはとても及ばないけれど、

 大学受験のときを思い出せば自分にも似たような経験がある。

 勉強法の本によると、人間の脳は起きてから3時間後が、

 活性化するらしい。

 志望校の受験本番は10時開始、なら、遅くとも7時には起きよう。

 早寝早起きは良いともちろん知っていたし、親からも言われながら、

 なかなか続かなかったのに、自分から寝るようになった。

 そして一人で起きるようになった。

 そして食べる物も、特に昼食は眠くならないように、と気を使う。

 そして予備校に通い、各科目の勉強に精を出す。

 

 なぜ、こそまで頑張るのか?

 と問われれば、

 「あの大学に合格したいから」

 それ一つ。そのために生活のすべてがある、という状態であった。

 

 これを「私」という一つの存在について当てはめると、どうだろうか。

 「私」は多様に語られる。

 通っている学校は、

 学んでいる専攻は、

 就いている職業は、

 生まれた家は、

 特技・趣味は、

 、、、などなど。

 

 こういった特徴すべてを貫いて、

 「この一点にむけて」すべてがある、といえるような「一」があるか。


 哲学的には、

 「私」が「私」として存在している理由は何か、

 そもそも「私」は何の為に存在しているのか、

 これこそが「私」の本質であり、

 この一点を探求するのが哲学だということ。

 


 あるいは、自動車の免許を取るために

 「教習所」に通うことを考えてみる。


 同じサークルの友人が、2週間の合宿に行く。

 教習の合間や夜の時間もテキストを開きながら予習・復習を

 していた。

 この2週間という限られた期間、全神経は

 「免許を取る!」

 という一点に向けられている。


 もし万が一、免許が取れなければ

 (そんなことはまず有り得ないだろうが)

 かけた時間も、金銭も、無駄になってしまう。

 ある意味、大学の講義以上に熱心に取り組む。


 しかし、だからといって、

 「免許を取る」

 ために「私」が存在している、とは言えないだろう。


 免許を取るのは車に乗るため、

 車に乗るのは生活のため、

 とさらに先に、目的であり必要性がある。


 「免許を取る!」

 というのは、2週間という限られた期間だけのこと。

 本当に問題になるのは、その後、どうするか、である。

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■展望 「存在」と「時間」

 では、「私」という存在が多様に語られるとして、

 はたしてどれが、「本当の自分」だろうか。

 いや、その中に「本当の自分」といえるものがあるだ ろうか。

 

 ハイデガーは、その一点を

 「時間」から解明しようとした。

 その取り組みが、

 『存在と時間』として、書き残されたのだ。

 

 では、 『存在と時間』には何が書かれているのか。

 ハイデガーが試みた、「時間」から人間存在を解明するとは

 どのようなことなのか。

 

 順次、追って検討してみたい。

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