ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

第4回目 人生における最大の課題     ~死の問題とその解決~


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■「死」の問題が、哲学の動機


 最近、若くして亡くなった女優のニュースが

 巷を駆け巡っている。

 その知らせに触発され、ここで取り上げている問題の

 核心部分を、先取りの形で書き残しておこうと思う。


 誰にとっても、自己の「死」ほどの大問題は無い。

 この世に生まれ、生きている以上は

 いつかは死なねばならない。

 その時が、臨終が訪れれば、そこで私という存在は

 この世から失われてしまう。

 そう思うからこそ、交換できない、やり直しもできない

 という自己の存在の「重み」を実感するのだろう。


 確かに、私という存在は交換も、やり直しもできない

 というのはわかる。

 わかるのだが、だからといって、その私の存在をそのまま

 「すばらしい」と無条件に賞賛できるだろうか

 
 これぞ「本来の自分」といえるもの、
 
 果たすべき目的を果たした、と心から認められる状態、
 
 いわゆる「自己の存在」に意義を感じられる状態とはいかなるものか。
 
 これが、古来から哲学者が常に取り組んできた問題である。
 
 
 この問いに、ハイデガーはズバリ、

 「死」つまり「生の終わり」が、

 「生」そのものの本来の価値を顕(あらわ)にする、

 と指摘している。

 自己の「死」を直視したとき、

 まさに当の自分の、本来の意味、価値を見出すのだ、と。


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■「死への先駆的決意
 (Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode)」


 ハイデガーによれば、自分の死を直視し、

 自分の生涯が有限であることを自覚することが

 自分の人生を有意義に生きるための必須の条件である。


 人間を「死への存在 Sein zum Tode」

 と規定すると、

 人間存在の有限性が明らかになる。

 
 人間は、死という終わりを持っている。

 我々人間は、死を避けて通ることはできず、

 否応なしに死と関わりを持たなければならない。


 
 この自覚に立ったとき、

 人は、限られた時間を、無駄に過ごすことなく

 真剣に生きることができるようになる。


 この有限の時間を、何に費やすべきか。
 
 その選択と、それを実行する決断に迫られる。
 
 その決断は、死を先駆的に覚悟した決断であり、
 
 当然、真剣なものにならざるを得ない。


 
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■「死」は「いつ」の問題なのか


 ところが、我々は普段、健康であるときは、

 死を「他人のもの」であって、自分を当事者とは思っていない。


 「ひとはいつかはきっと死ぬ、

  しかし当分は、

  自分の番ではない」

 という見解が、世間に広まっている、と指摘している。


 一つの可能性として、

 「いつかは死ぬ」と理解はしているものの、

 自分の死が現実的になるのは、

 いつのことかわからない。

 すなわち死は、今のところ自分とは関係がないと、我々は思っている。

 これが自分自身の死から目を逸らした「世人」の生き方である。


 
 
 「人間が生まれでるやいなや、

 人間はすでに死ぬべき年齢に達している」

 とも言っている。

 
 
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■選択の基準とは


 前回、

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉から、「選択」に付きまとう

 重い「責任」について触れた。


 「選択」とは、現前の可能性から一つを選び択ることである。

 それは同時に、他の一切を否定し、

 その可能性(在り得た自分)を放棄することだ。

 だから、その選択は、重い責任を自らに負う。


 重要な選択であればあるほど、

 それには相応の根拠・基準がなければならない

 その最たるものが、「自己の死」だと言われているのである。

 
 

「疾風に勁草を知る」

 出典は『後漢書』の王覇伝にある、

 漢王朝を再興した光武帝が、窮地にあって

 自分に従って来た者達が次第に離散していく状況で、

 慨嘆して述べた言葉である。


 困難に遭ってはじめて、その人間の本当の価値、

 強さが分かるということを教えている。


 同様に、選択についても、

 制限・負荷が大きければ大きいほど、

 その選択を吟味する基準は徹底したものになる、
 
 という意味にも取れる。



 「人間が、ふつうに幸福と考えているものは、

 傷つきやすい、みかけの幸福である場合が

 多いようであります。

 それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、

 それ死を直面した場合に立たせてみると、

 はっきりいたします」

 (岸本 英夫『死を見つめる心』)


 ガンと10年闘ってこの世を去った、

 東大・宗教学教授の岸本英夫氏が
 
 遺作として著した『死を見つめる心』 の一節である。



 どんな生き方を選んでも、

 最後は「死」を迎えねばならない。
 

 それまでの「人生」という時間を

 何に費やしたならば、心から
 
 果たすべき目的を果たした、
 
 これぞ「本来の自分」といえる、
 
 いわゆる「自己の存在」に意義を感じられる状態に
 
 至ることができるのか。
 
 
 「死へむかって開かれた自由のみが、
 
 現存在(人間)に端的な目標を与える」

 (『存在と時間』第2編5章)

 私は、必ず死ぬ。

 しかもその死は、いつ訪れるかも分からない。

 50年先と思っていたら、今年、「その時」が

 来るかも知れない。


 いや、明日、あるいは今晩にも、

 絶対に無いとは言い切れない。


 その「死」の問題を、直視し、
 
 「いま」の自己の問題と引き受けてもなお、
 
 「私の存在はすばらしい」

 と言えるだけの根拠が、

 自己の存在を預けられるだけの拠り所があるだろうか。

 
 それこそ、人間にとっての不可避の課題、

 有限の「生」のうちにおいて、

 是が非でも解決を求めねばならない問題だと、

 ハイデガーは指摘しているのである。
 
 
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■まとめ
 
 
 大著、『存在と時間』を初め多くの書物を著し、
 
 86年の生涯を通して精力的に講義を続けた
 
 哲学者、ハイデガー
 
 その思惟の動機は何だったのだろうか。
 
 
 その著作に触れた人はみな、
 
 異様・異常、執拗なまでの「厳密さ」を求める姿勢に
 
 「何か」を感じるだろう。
 
 
 彼の思惟を突き動かした動機、それは「軽い問題」では
 
 なかったことは言をまたない。
 
 己の存在を懸けて、「思惟」の道をもって
 
 目指すべき処へ至ろうとしたのだろう。
 
 
 可能な限り、その道をたどってみたい。