ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

第0回目  問題提起「人間とは、存在とは」

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■存在への問い 「人間とは何ぞや」


 まず、このブログで扱う問題について、触れておきたい。

 中心になるのは、ハイデガー存在と時間』である。


 人間とは何ぞや。

 私は、なぜ存在しているのか。

 この世界に、私が「いる」意味は何なのか。


 この「人間」「存在」への問いは、誰しもが一度は、

 心に抱いたことがあるだろう。


 しかし、表立って問いかけることは、少ないようにも

 見受けられる。


 小学生のころ、

 「マンガ世界の歴史」「マンガ日本の歴史」

 を夢中になって読んでいた。


 中学では

 横山光輝氏の「三国志」(マンガ・60巻)

 にハマり、何度も何度も読み返した。


 数百年、中には数千年も昔の人が、

 何を考え、どう行動していたのか。


 活き活きと描かれるマンガを、夢中になって読んだものだった。


 しかし、考えてみると、強いむなしさもあったように感じる。

 どんな偉業を為した人でも、

 100年も「存在」していない。

 長い歴史からみれば、あっという間に消えてしまうもの。

 残るものといえば、せいぜい建物くらいだが、

 それも遺跡としてごく一部が残るのみ。


 果たして、「偉人」と称賛される人でも、

 その「人間」としての存在にどんな意味があったのだろう、と

 考えると・・・

 どれだけ歴史を勉強しても、心に収まる答えは得られなかった。

 

 その目が自己に向けば、

 どうして、今、自分は「いる」のだろう

 という問いとまる。


 私が、この世界に「いる」間に、

 何事か為すべき事があるのだろうか。


 無いならば、意味の無い存在となってしまう。

 そんなはずはない!と思いたいが、

 「これ」という答えも無ければ手がかりもない。

 
 何としてもこの問いは克服しなければならない、

 知りたい、存在の意味を。

 幼いながらに、重い疑問を心に抱いていた。


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■消えない不安 「いったい、どこへ向かっているのだろう・・・?」


 しかし小学生であった当時、周囲の誰も

 考えてはいないようであった。

 また大人に聞いてみても、

 まったく真面目に取り合ってもらえない。


 そして中学に上がり、高校に進むと勉強と部活で

 手一杯になり、考えることも無くなっていった。

 部活の練習に一心不乱に打ち込んでいる時には

 他のことは一切考える余裕も無い。

 また友人と、趣味の話で盛り上がっている時にも

 「人間とは何ぞや」など頭には浮かんでこない。


 特に不都合もないし、このままで良いのでは?

 このまま日常を送ってゆけば、

 ことさらに思い悩む必要も、ないのでは?


 しかし、時おり、気になる時もある。

 それは何か理由があってではなく、何となしに。


 いつも乗っている通学電車でウトウトして、

 ハッと目を覚ましたとき。

 一瞬、自分が何処へ向かっているのか、

 わからない感覚に捉われる。


 もちろん、今は家に帰るのだから最寄の駅で降りるのだけれど、

 その意味では目的地はハッキリしているのだけれど、

 何となしに「不安」を感じてしまう。
 

 今から思うにそれは、自分が何者か、

 自己の「存在」認識が実は曖昧である、というところからくる、

 根源的不安だったようだ。


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■哲学との出会い アリストテレスの存在論


 大学の専攻は、考古学を選んだ。

 先生も、親も、「好きなことをやったらいい」と

 自主性を重んじてくれたので、ならば「好き」なものを

 選ぼうと、当時、知られ始めていたエジプト考古学を志望した。


 その時はあまり自覚していなかったが、これも幼い頃の

 歴史に対する漠然とした関心が根底にあったのかもしれない。


 ところがその大学で、「哲学」との出会いがあった。

 それは、まさに衝撃だった・・・

 

 1年次の一般教養で、とくに深く考えもせず、哲学の概論を受講した。

 すると、定年寸前(69歳だっただろうか)の

 哲学専攻の重鎮である名誉教授が、

 カント『純粋理性批判』の「序文」、

 わずか半ページを、

 半年近くかけて講義したのだ!!

 

 内容はカントの「コペルニクス的転回」について。

 難解な内容を、身近な事例をあげて分かりやすく、

 しかも嬉しそうに!語る姿が印象的で、

 今でも忘れられない。

 

 これが「哲学」との出会いであり、

 その奥深さに触れた、最初であった。


 同時に大学では、先輩からの紹介で仏教哲学も学び始め、

 二千年以上前に世界の成り立ちと人間の存在について、

 徹底した洞察があったことに感銘を受ける。

 

 所属大学では、1年次の終わりに専攻を決めることになっていた。

 最初は「考古学」に提出し、高倍率の中、内定していたが、

 どうにも「哲学」への関心の高まりを抑えらなかった。

 ついに学部長に直訴して、無理を言って変更してもらったのだが、

 前代未聞だぞ、と言われた。


 遺跡や遺物への関心も、掘り下げれば

 それらの「物」を残した人々への関心であり、

 古代から今日まで一貫して変わらない「人間」への関心、

 「人間とは何ぞや」であったと気づいたのである。


 2年次からは哲学に加えて文学、歴史(西洋・東洋・概論)、

 社会学、心理学、地球科学、民俗学、論理学、地理学、、、

 関心の赴くままに受講した。


 同時に仏教を深く学ぶようになり、

 「人間」への見方の深さ、鋭さに更に感銘を受ける。


 卒論には、もっとも素朴に、かつ純粋に

 「存在」を探求したと思われる哲学者、

 アリストテレスを選んだ。


 専攻の中でも最も人気の「無い」古代分野だったため、

 卒論指導は担当教官とマンツーマンで行われた。

 

 この道一つに生きてきた専門家と、90分、

 「哲学」一つを語り合う。

 講義ではもちろん、演習でもなかなか実現しないシチュエーション。

 「哲学」することを身体的に、日常の行動・実践のレベルで学ぶ、

 得難い機会を頂いたものだと思う。

 

 アリストテレスを深く学ぶ課程で、

 実は20世紀最大の哲学者といわれるハイデガーが、

 特にアリストテレスに関心を持っており、

 主著である『存在と時間』は、アリストテレス哲学の再解釈であったと知る。


 ハイデガーこそが、自分の関心に応えてくれる哲学者であったと気づくが、

 卒論作成のために本格的には学べず。


 今になってようやく、本格的に学ぶ機会を得た。
 

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ハイデガー哲学とは 『存在と時間』の謎


 20世紀最大の哲学者といわれるハイデガー

 その主著は『存在と時間』である。

 この本、実は「未完の書」であったと

 知る人は、少ないようである。

 まず、存在と時間』の成立について、簡単に触れる。


 『存在と時間』の出版は1927年4月。

 これは、どんな時であったのか。


 ハイデガーは、1909年、フライブルク大学に入学する。

 初めは神学部だったが、入学後に読み始めた

 フッサール『論理学研究』に影響されてか、

 1911年に哲学部へ転向した。


 実は、フッサールのいたゲッティンゲン大学へ移ろうとしたが、

 経済的な理由で実現しなかったといわれる。


 しかし1916年、フッサールフライブルク大学に異動になり、

 ハイデガーにとっては念願の師弟関係を結ぶ。

 ここで「現象学」的な見方を習得し、その哲学手法が

 アリストテレスの『形而上学』を初めとする主な著作の解釈を

 実り多きものとした。

現象学については、後の回で詳しく触れる)


 1923年からマールブルク大学教授に就任したハイデガーは、

 自らの哲学研究の成果である『存在と時間』を

 師のフッサールに捧げた。

 『存在と時間』の巻頭には、

 「エドムント・フッサールに 尊敬と友情をこめて贈る

  1926年 4月8日」

 とある(4月8日はフッサールの誕生日)。

 

 しかし、『存在と時間』には、きわめて重大な謎がある。


 それについては、『ハイデガー入門』(細川亮一著)に、

 以下のように触れられている。

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 『存在と時間』は1926年4月1日にその印刷が開始される。

 それは544貢のものであった。

 6月末まで印刷は順調に進んだが、夏学期の半ばに、ハイデガー

 印刷を一時停止させ、『存在と時間』の書き換えを行った。

 その書き換えによって分量が多くなり、全体を400貢ずつに

 分けねばならなかった。

 さらに第三編「時間と存在」は印刷中に不十分とされ、

 その部分の出版が断念される。


 『存在と時間』の構想によれば、二部構成(それぞれ三編構成)で

 あるが、実際に出版されたのは第一部の第二編までである。

 現行の『存在と時間』は、その課題を真に果たすことになる

 第三編を欠いた未完の書なのである。
                  (『ハイデガー入門』)

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 何と、20世紀最大の哲学書とも言われる

 『存在と時間』が、未完成であったとは!


 なぜ『存在と時間』は未完に終わったのか?

 そもそも、ハイデガーは『存在と時間』で

 どんな問題を扱っていたのか?

 その問題に答える『存在と時間』が、

 どうして書き換え、中断してしまったのか?


 この問題に正面から取り組んでみたい。

 果たして、どのような結果になるか分からないが、

 もしかしたら、これが哲学の歴史を変える、

 きわめて重大な問いなのかもしれない。


 以上のような趣旨で、これからハイデガーについて、

 取り上げてゆきたいと思う。


 私も学びの途中であるので、至らない点ばかりであろう。

 お気づきの点、指摘があれば、ぜひ教えて頂きたい。