ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

第2回目  存在を知るための方法「現象学」


■「現象学」とは?存在を探求し、解明する道


 前回(1回目)の最後に、「展望」として、

 「私」という存在を、「時間」から解明しようとした試みが

 『存在と時間』として書き残された、と書いた。

 この


【「時間」から「存在」を理解する】


 とはどういうことか。

 これについては今回の最後に私見を述べることにして、

 まず、「存在」を探求する学問としての「存在論」について、

 ハイデガーの思惟の道に即して、基礎的な部分に触れておきたい。

 

 ハイデガーが、存在を探求する試みである「存在論」の

 方法として採用したのが、

 「現象学」であった。

 これは、直接の師匠であるフッサールが、

 新たな哲学運動として創始したものである。


 「私とは一体何者なのか」

 「それを把握することが、果たして可能なのか」

 という極めて切実な問いに答えるのが、哲学の役目である。

 

 だから、哲学は

 「厳密な学」でなければならない。

 フッサールが、この信念に基づき、生涯をかけて

 己の存在という大問題に答えるために、

 構築した一つの「学」が「現象学」である。


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エドムント・フッサール

(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859年4月8日 - 1938年4月27日)
オーストリアの哲学者、数学者。

ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、
ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、
哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、
全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。

現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、
マルティン・ハイデッガージャン=ポール・サルトル
モーリス・メルロー=ポンティらの
後継者を生み出して現象学運動となり、
学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。

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 このフッサールの元で哲学を学んだハイデガーは、

 「現象は光のうちで視られる」

 と述べている。

 

 光がなければ、どんな現象も「視る」ことはできない。

 一見、当たり前だが、実はここに深い哲学的考察が含まれている。


 「視る」とは、「その存在を認識する」ことである。

 ここで「視覚」は、私たちの「認識」の働きを端的に表す

 モデルである。


 ( 自 )  →  ( 対 象 )


 このような場合、(自)から(対象)へ向かう(→)が

 視覚の働きである。視覚は、「視る」ことで、

 (対象)がそこに存在していること、

 またどのような色・形・状態で存在しているか、

 認識する。


 この「視覚」が働く前提が、「光」である。

 「光」なくしては、「視覚」はその一切の機能を働かせることはできない。

 

 ここまでは、当たり前のことである。

 そこで、このモデルを「認識」の場に、適用してみよう。

 つまり、物理現象としての「物(色・形・状態)」に対しての

 「視覚」の働きを、

 物理現象ではない、色・形を離れた概念である「存在」を認識する

 作用に適用してみる。


 そうすると、「視覚」にとっての「光」にあたる、

 認識が働く前提は何なのか、問題になる。

 表面的な色・形・状態ではなく、そのものの「本質」や

 「そのもの」を認識することが可能であるならば、その認識を

 可能にさせるもの、認識の前提があるはず。

 それは、一体何なのか。


 問題の対象が明らかになったところで、考察を深めるために、

 もう一度、物理現象の場に戻ろう。


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■「存在」を認識する前提とは ~「光」の働き~


 ハイデガーは、「光」というものは

 「それのうちで或るものが露呈し、

  それ自身に即して視られうるように

  なりうるそれ」

 であると、規定している。


 この発想の元となったのは、アリストテレス

 「或る意味で光は、

  可能態において色であるものを、

  現実態において色であるものに作る」

 という言葉である。

 最低限、用語の解説をしておきたい。

 

 「可能態」とは、

 「○○になりうるが、未だそのように至っていない状態」

 のこと。

 「花になりうるが、未だ開花していないつぼみ」

 や、

 「大学生になりうるが、未だ合格していない受験生」

 などである。


 「現実態」は、その可能性が「現実」のものとなった状態である。

 上記の例では、

 「開花した花」

 「合格した大学生」

 がこれに当たる。


 さて、ここでアリストテレスが述べていることを、

 物理現象で具体的に言うと、こういうことである。


 「暗闇に置かれているリンゴ

  =可能態において色であるもの
  (本当は赤いが、今は赤く「見えない」状態)

  に、光を当てると、

  赤く見える

  =現実態において色であるもの」


 すでに「赤い」という性質を備えていても、

 「光」がなければ、その性質が発揮できない。

 つまり「視覚」の働きで言えば、「赤い」リンゴも

 「赤い」と見えない(認識できない)。


 そのものがすでに持ち合わせている可能性を、

 現実にする働きこそが、「光」なのだ。

 

 ちなみに、一般的な意味で「存在」するモノから離れ、

 抽象的な概念のレベルで「存在」を探求することを

 「形而上学」という。

 いわゆる五感で感知できない、目に見えず手にも触れられないが、

 「存在」するもの(本質、精神、自由、愛など)を探求する

 「学」である。


 では、この働きを形而上学的に、物理現象を離れた

 場面に置き換えると、どうなるか。

 

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■「光」の形而上学


 「私」という一個の存在について、考えてみる。

 「私」は、多様な可能性を持っている。

 

 現状がどのようであれ、今から、どんな人生を歩むか。

 どうなってゆくのか、一通りでない。

 それどころか多種多様である。

 いや、明日の一日だけを考えても、可能性(選択肢)は

 無限といっていいほどキリがないであろう。


 では、その中で、何を選ぶべきだろうか。

 当然ながら、

 「一つ選ぶ」

 ということは、

 「他の選択肢をすべて捨てる」

 ことになる。


 無限とも思える選択肢の中で一つ選ぶ際には、

 その一つが

 「最も良い選択」であったかどうか、

 考えざるを得ない。誰しも不安であろう。

 これが、喫茶店やレストランでメニューを選ぶ程度の

 レベルなら、それほど深刻には悩まない。


 しかし、人生の中でも相当大きな選択を迫られた

 場合は、否が応にも考える。深く悩む。

 大学を選ぶのも四年間という時間、数百万のお金を

 かけて、ただ一つの大学を選ぶのだ。この重みを自覚したら、

 まさかパンフレットの写真だけ、あるいは「なんとなく」の

 イメージだけで決定はできないだろう。

 

 更に、職業を選ぶ段階ではそれ以上に深く考え、悩んで

 結論を出すのではないだろうか。

 

 それは、捨てる「他の選択肢」それぞれの価値と、

 自分が選ぼうとしている「一つ」を比べている、とも

 言えるだろう。

 

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 とサルトルは言った。

 

 人間は「自由」のうちに生まれ、生きている。

 しかし、「自由」の裏には「責任」がある。

 自分が選んだ、ならばその結果がどうであれ、

 すべて自己責任である。

 選択が重くなればなるほど、責任も重くなる。

 そして生きるということは、選択の連続である。


 その結果、ドストエフスキーが言うように

 人間は「選択の自由という恐ろしい重荷」に押し潰されて

 しまっているのではないだろうか。

 

 特に大きく未来を左右する選択には、確固とした根拠がほしい。

 しかし「これで間違いない」と選んだ先に、想定外の

 災害・トラブルに見舞われ「こんなはずではなかった・・・」と

 後悔するのではないか。

 

 そうはなりたくない、しかし

 「絶対に間違いない」と言えるほどの、

 確固とした根拠が見つからない。


 このように不安を常に抱えつつ

 生きねばならないとしたら、

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉は、

 まことに当を得ている、と

 言わざるを得なくなってしまうだろう。

 

 先にハイデガーは、「光」を

 「それのうちで或るものが露呈し、

  それ自身に即して視られうるように

  なりうるそれ」

 と規定していると述べた。


 五感レベルの日常的「存在」ではなく、

 抽象的な概念レベルで「存在」を探求する

 形而上学における「光」とは何だろうか。


 この「光」が明らかになり、「私」という存在が

 照らされたならば、未来、行く先が明らかになる。

 それはすなわち、眼前の選択において明確な根拠が与えられ、

 自信をもって選び取ることができるようになる、

 ということである。


 ハイデガーの思索は、伝統的古代哲学の問題を忠実に

 踏襲しつつ深掘りし、独自の存在論を展開している。

 まさに「光の形而上学」と呼ぶにふさわしい。


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■まとめ 現象学の成果・自己の形而上学的理解について


 ハイデガーが、「存在は『時間』から理解される」と予想し、

 それを論証するために書いた論文が

 『存在と時間』である。

 

 この「存在は『時間』から理解される」というアイデアを、

 自分なりの理解で表現すれば

 「存在の意味(価値・理由)は、時間性から眺めることで明らかになる」

 ということであり、噛み砕いていうと

 「過去から現在、そして未来への『時間』の流れの中で、

  はじめてその『存在』の真価が明らかになる」

 ということである。


 この「存在理解」の道として、ハイデガーが採用したのが

 「現象学」である。

 この現象学の成果として「私」という存在を照らす

 光が明らかになるはず、というところまで進んだが、

 この問題についてはもう少し、論を進める試みをしてみたい。