ハイデガーの思惟の道 ~『存在と時間』に至る道、そこからの道

ハイデガーの思想を、『存在と時間』を中心に、読み解く試みです。『存在と時間』という著作に至るまでのハイデガーの思索の過程と、そこからの発展をひとつの「道」としてとらえ、その意義について考えてみたいと思っています。

第3回目 現象学の基礎 ~自明性への問い・「地平」の概念~

現象学の意義 ~「自由」という不自由からの脱却を目指して~

 前回、「私」という人間の「存在」を理解する道として、

 ハイデガーが採用したのが「現象学」であると言った。

 この現象学について、もう一つ、補足しておきたい。

 

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 というサルトルの言葉は、非常に深長である。


 人間は「自由」のうちに生まれ、生きている。

 しかし、「自由」の裏には「責任」がある。

 自分が選んだことならば、その結果がどうであれ、

 すべて自己責任である。

 選択が重くなればなるほど、責任も重くなる。

 そして生きるということは、選択の連続である。


 そうなると、生きるということは、

 自由になるほど、その責任が重く、

 ある意味では不自由になってゆくもの

 なのかもしれない。


 「私」という一個人を考えてみても、

 多様な可能性を持っている。

 今から、どんな人生を歩むか、一通りでない。

 どころか多種多様である。

 いや、明日の一日だけを考えても、可能性(選択肢)は

 無限といっていいほどキリがないであろう。


 では、その中で、何を選ぶべきだろうか。

 当然ながら、

 「一つ選ぶ」

 ということは、

 「他の選択肢をすべて捨てる」

 ことになる。


 それだけ重い選択をせざるを得ない、

 そんな私たちに、大きな手助けとなるのが

 「現象学」なのだ。


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■「分からない」と分かっているのか、「分からない」ことが分からないのか

 まず現象学は、

【「自明性」を問う】

 ところから始まる。


 「自明性」とは、

 皆が「あたりまえ」と思っていること。

 また生活の、あるいはコミュニケーションの

 大前提となっていること、である。


 しかし、この皆が「あたりまえ」と思っている事柄を、

 立ち止まって考えてみると、曖昧になってしまう。

 実は、問われると答えられない、という事実に

 気づいてしまう。


 たとえば

 「時間とは何か」

 と聞かれて、迷わず答えられるだろうか。


 
「では時間とは何か。

 私に誰も問わなければ、私は(時間とは何かを)知っている。


 しかし(時間とは何かを)問われ、説明しようと欲すると、

 私は(時間とは何かを)知らない」

               (アウグスティヌス『告白』)


 一般に「学問」は、

 「自明のこと」を「法則」や「定理」とし、

 それら一般的な知識を土台として、

 複雑な理論を構築してきた。


 いわば土台から高く高く、構造物を組み立ててきた

 のである。


 現象学の働きは、ちょうどその土台の検査のように、

 「自明のこと」とされている知識にむけて、

 本当に正しいのか?と問うのだ。


 これを

 「自明性の批判(吟味)」

 という。


 分からないものが「分からない」のなら、当たり前。

 しかし、 分かっているはずのものが

 「分からない」となると、問題となる。

 

 つまり、

【「分からない」と分かっている】

 ならば、「問題」として取り組むことができる。


 しかし、

【「分からない」状態であることが、分からない】

 のであれば、「問題」にすることもできず、

 当然「解決」はありえない。

 これでは何も進歩しないのだ。


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■「忘れられた地平」を開示せよ

 そして現象学では、

 「現出」と「現出者」を区別する。


 「現出」とは、今、見えている姿のこと。

 一つの物が、私に意識される際には、色々な

 姿として写るだろう。


 「現出者」とは、それら多様な現出のもとである。

 当然、もとは一つの存在なのだ。


 例えばサイコロ。

 サイコロ、という一つの立方体が、

 私の目には一~六の「出た目」

 として写る。


 このサイコロが「現出者」、

 いろいろの「出た目」が「現出」にあたる。

 

 さて、ここで非常に重要な概念である

 「地平」

 が登場する。


 まず、この「現出」に二通りある、と区別する。

 「顕在的現出」と「潜在的現出」である。


 「顕在的」とは、今、見えている姿(一つの姿)。

 「潜在的」とは、今は見えていないが、必ずそこにある姿
     (他の見え方、多種多様)。


 この、「潜在的現出」の総体を、「地平」と名づける。

 サイコロでいうと、今、「一」と出ているなら

 「二」から「六」までの目が、「潜在的現出」である。

(本当は、同じ「二」の目であっても、

 認識主体である「私」が、少しでも首を傾ければ、

 「見え方」が変わる。つまり別の「現出」となる。

 よって、「顕在的現出」は無限の姿を取りうることになる)


 この「潜在的現出」、言い換えると

 「顕在化していないが、顕在化しうるものども」を、

 「地平」と言う。


 この「地平」が、「現出者の現出」を支えているのだ。

 逆にいうと、すべての「顕在的現出」は、

 「潜在的現出」を含んでいるとも言える。

 

 現象学の概念によって、初めてこの「地平」を意識することができる。

 意識して初めて、「問題化」が可能になるのだ。

 意識しなければ、「問題化」もできない。

 ただ、素通りするだけである。


 ここでいう「問題化」とは、


 「今の自分の「在りよう」も、無数の地平の一つにすぎないのか。

  ならば、別の「在りよう」も可能なのだ。

  今の自分が、「本来あるべき」姿なのだろうか?」


 という問いを、自らに投げかけることである。

 これは自分にしかできない問いであり、

 また必ず問わねばならない問い、

 そして解決せねばならない問いであろう。

 

 なお、20世紀を代表する哲学者の一人、レヴィナス

 このように言っている。

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エマニュエル・レヴィナス
フランスの哲学者。

独自の倫理学、エトムント・フッサールマルティン・ハイデッガー
現象学に関する研究の他、タルムードの研究などでも知られる。
ロシア帝国、現リトアニア、カウナス出身のユダヤ人。

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 「現象学、それは志向性である

  しかしそれは、意識が対象に向かって「炸裂」し、

  直接に対象のもとにあるというだけのことではない。


  対象に向かって「炸裂」する志向は、

  対象を把握するのみでなく誤認する」


  「志向は、それがただ含蓄的に含んでいるものすべて、

   意識が見ることなく見ているものすべてを、忘れている」

    (『実存の発見―フッサールハイデッガーと共に』 )


 私たちが現実をみるとき、

 「先入観」というヴェールを通している。

 その為に、ある時は「見えるもの」が見えず、

 またある時は「見えないもの」を見てしまう。

 その「先入観」を外して、あるがままの

 対象を認識せねばならない。


 その為には、意識が「忘れている」もの、

 つまり「見落としているもの」に目を

 向けなければならない。


 この「見落としているもの」を、

 現象学の用語で「地平」という。

 この「忘れられた地平」に光を当て、

 私の認識に明らかに開き示すことが、

 現象学のまず第一の働きなのである。


 先に触れたように、「私」の在りようは多種多様である。

 しかも、自覚している在りようはおそらく、

 全体のほんの一部であろう。


 自分とは何者なのか、より深く、慎重な考察が必須と

 思わずにおれない。


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■まとめ

 哲学とは、

 「私とは一体何者なのか」

 という大問題を、その課題とする。


 そして、

 「それを把握することが、果たして可能なのか」

 という極めて切実な要求に答えるべく、

 フッサールが生涯をかけて

 構築した一つの「学」が「現象学」である。


 だから、現象学は、

 「厳密な学」でなければならない。


 これがフッサールの、生涯を貫くモットーであった。


 弟子であるハイデガーは、その言葉を実現すべく、

 自らの主著である『存在と時間』において、

 「序論」の全て(約80ページ)を費やして、

 「存在とは何か」という「問い」の分析を行っている。


 つまり、

 答えるべき「問い」について

 どのような問いなのか、

 どのように答えるべきか、

 こと細かに分析したのだ。

 

 現象学の成果として、今回、紹介した

 「地平」の概念を意識することにより、

 「私」について、日常生活ではおよそ無いであろう

 根源的なレベルから問うことが可能になる。


 答えがあるのか無いのか、

 また、答えは何なのか、という以前に、

 「問い」を立てることが可能になった。


 ここに、大きな意義がある。


 今回はここまでとし、ではその答えは何か、

 という内容は次回以降で説明したい。


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